2000年の雑感
目次
2000/03/24 映画「スペシャリスト」
2000/02/13 Chales M.Schulz氏死去
2000/01/16 教育の崩壊
映画「スペシャリスト」は、このAdolf Eichmannの実際の裁判を記録した500時間(現存は350時間分らしい)のVTRを再編集して作られた映画です。この映画の中で、Adolf Eichmannはそこらにいるような、有能な官僚というイメージをうけました。答弁は明瞭で、自分の権限の範囲外のことはしかるべき権限を持つ者の指示を仰ぎ、精力的に自分のもつ能力を使い、淡々と職務(ユダヤ人虐殺のための、ユダヤ人の移送)をこなしていく..........。もし彼が今の時代に生まれていたら、さぞ有能な事務屋になったでしょうね。そんな人物像である。
そんな彼にも、一つだけ共感できるところがあって、自分の持つ公権力を恣意的に利用しなかったことなんです。この一点のために、明らかに有罪になるとわかっている裁判(自身で歴史上最悪の犯罪に荷担したと彼は語っています)を彼は独りで闘っていったのではないのでしょうか。まあ、彼のしたことを考えずの話だけど、公権力を恣意的に利用して私腹を肥やしている輩にくらべれば、Adolf Eichmannの方がいい奴に私には見えるんですけど。
ただ、ここで忘れてならないのは、現代という時代において、組織の中で自分が職務に忠実にした仕事の結果がどうなるかは、誰にも正しい判断ができないという点でしょう。Adolf Eichmannは歯車の一つであって、(職務の内容は間違ってはいたが)職務に忠実であったがために絞首刑になった。これは、いつ我々の身に起こってもおかしくない。もし、自分のしている仕事がおかしいとわかっても、職を賭してまでできる人間がどれだけいるのであろう。そんな人間はほとんどいないのではなかろうか。その意味において、我々は第二、第三のAdolf Eichmannになる可能性を持っている。
そうはいっても、自分の職務上した(場合によってはしなかった)仕事の結果が社会に対して明確な罪をなすときには、その人間は責任をとらねばならない。例え歯車の一つであって、判断する権限が全くなくて、ただ命令に従っていただけとしても、責任をとらねばならない。と、他人には言えるのですが、自分がその立場だったらどうするのでしょう。
我々はいついかなる状況であっても、まともな判断力を備えた市民であることを当然に要求されています。でも、本当にそれは誰もが実現可能なのでしょうか。私には、それは疑問です。
社会というシステムに組み込まれていると、まともな判断などできなくなるときがあります。そのとき有効な法律も業務命令も自分のすることの正しさを保証しています。それでも、責任をとらねばならないのでしょうか。疑問は残ります。
Adolf Eichmannのしたことは、確かに許せるモノではないでしょう。でも、それは犯罪なのでしょうか。その行為をなした時の法を彼はやぶっていないし、職務に忠実でした。
ただ、ユダヤ人の抹殺ということに、荷担したことが非常に大きな問題だったのでしょう。
こんなことを見るにつけ、私はこう思います。いかなる権力も持ちたくないと。
追記:なんか、この文を書いていたら、オウム真理教の被告たちが語っている口調と、Adolf Eichmannの語る口調はちょっと似通ったところがあるような気がしてきた........。
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とても悲しい。でも、こんなことを思い出した。
Chales M.Schulz氏の漫画、PEANUTSにこんな話があったのを覚えている。正確ではないかもしれないが、それは、こういう内容であった。
Charlie Brownが本をLucy van Peltに読んでもらっていた。
「ある男の一生」
ある男が生まれた、生きた、そして死んだ。
Charlie Brownは、世界一感動的な物語だ〜、と叫び泣いていた。
Lucy van Peltは、アホクサって感じだった。
たぶん、「ある男の一生」はSchulzさんの人生観であったのであろうし、私もその人生観をいいなとおもう。
最悪、人生の価値は「ある男の一生」と同じかも知れない。でも、人生には「ある男の一生」には書いていない、人生についてくる「オマケ」の喜びがあるとおもう。それは、恋人、友人、家族、音楽、絵画、彫刻、映画、詩、酒、自然かもしれないし、それ以外のものかもしれない。オマケだから、なくても生きていけるしね。でも、自分を幸せな気分にしてくれる、そんなオマケがあるからこそ人生は楽しいんだよなあ。なんてことを、昔々に考えたことを思い出した。
Schltzさんにとってのオマケの一つはたぶんPEANUTSを描きつづける事だったんだろうな。
御冥福を心からお祈りいたします。
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最近、中学校、小学校が荒れているという。
まあ、荒れるのについては、社会が無責任化していることに起因するので、そういうこともあるのだという程度でかまわないのであろう。問題はその先である。
よくいわれるように、日本という国は西欧諸国に比べて階級がない。そして、多少存在する階級についても容易に移動が可能である。簡単にいえば、しがないサラリーマン、平社員の息子が大会社の社長になることもあれば、大会社の社長の息子が一生平社員で終わる。といったことが、十二分におこりうるということなのです。
それを、可能にしているのが質の高い(高かったとかくべきなのか?)公立の中学校、小学校です。とりあえず、親の貧富に関係なく質の高い教育を受けられる(た?)というのは、親に関係なく子供は自由にその能力を開花させることができます。そして、自分の人生をいかようにも切り開いて行くことができます。
さて、ここで公立の小中学校が崩壊する--公立の教育システムが崩壊する--と、どうなるのでしょう。
少なくとも親が高収入である子供は、私立の学校に通うことによりまともな環境で教育を受けることができます。でも、大部分の子供は環境の悪い(ことが多い)公立の学校に行かねばなりません。そうすると、今以上に公立の小中学校と、私立の小中学校の出身者の未来の選択の幅は変わってくると思えます。また、公立の学校に行っていても塾に行かせるお金のある親を持つ子供と持たない子供では、かなりその将来設計が変わってくると思えます。それに対しては奨学金制度とかで対処すべきだとかいう論ももちろん成り立つわけですが、一部の優秀な人たち以外にはあまり関係のない話ですし、平均をとって論ずれば奨学金程度では成り立たないと私は考えます。
個人的な話ですが、私は小学校から大学に至るまでずっと公立の学校です。また、塾にも一回もいったことがありません。これというのも、学校の授業が崩壊するという経験を一度もしたことがないからです。もし、学校で授業が成立しないという事態になれば、私のように学校に頼りきった勉強というのもできなくなるのでしょう。社会が豊かになって、衣食住の心配がほとんどいらなくなっても、子供の未来が親の貧富で制限されては悲しいですね。衣食住と教育を受ける権利がトレードされたのでしょうか。
さて話を戻して、先に書いたようなことが数世代続けば、だんだん親の立場によって子供の将来が決定して行くようになってきて、欧米諸国のような階級社会という未来がくるのも近い将来なのかも知れません。
個人的には子供たちが未来の可能性を十分持っている今のような社会の方がすきなんですけどね。
関連サイト:文部省
註:階級
ここでいう階級とは所得の多寡とかいうものも含んでいます。(高所得者層、中所得者層、低所得者層など)
もちろん、貴族とか王室だとかある国については、そういうものも含みますし、西欧諸国ではないですが、某国では党の幹部とか、そういったものも一つの階級とみなしています。
関連サイト1:小林至(元ロッテ投手)による寄稿 アメリカの貧富格差の話がくわしいです。
関連サイト2:Japan Mail Media 上のページのトップページです。村上龍編集長の元で経済関係を主に扱うMM(無料)を発行しています。
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